入刀和酪洞公記 三月条
三月二十二日条
ほんとにすっぽかしていた。一ヶ月以上何も書いていない。生活の記録に空白が生まれてしまった。憑在論的だと言われるインターネットにあっておそらく数少ない忘れ去られたものだ。
この間に引越しをして一人暮らしを始めた、事前の下馬評と比べて非常に楽である。ユニットバスは汚いなどと言われるが、実家のあの異様なトイレと比べればはるかに綺麗だ。あれと比べればこの家の便器は舐められるぐらい清潔なのだ。実際には舐めないが。そこで思ったのは、ユニットバスを嫌う人々は潔癖が過ぎるのではなかろうか。一度汲み取り式で、排水管が細くよく詰まり、便座と蓋に何かがこびりついており、臭気を逃がす煙突が折れて臭気がトイレに漂うあのトイレで十年ほど生活してみれば、ユニットバスなど清潔の極みであると感じるだろう。
我が家の話をしよう。我が家は上に記述したようにまずトイレが劣悪なのだが、他にも劣悪な部分がある。まず私の部屋には窓がなかった。そして玄関に入って直ぐに私の部屋があり、玄関の土間と私の部屋はガラス戸1個しか隔てられていない。プライバシーも何もあったものでもないし、昼でも暗いし、そして夏は暑く冬は寒い。エアコンを付けたとしても全く効かず、一度消すと数分で元の気温にもどる。そしてその部屋の布団の下にはカビが生え、私はカビの生えた床の上に布団を敷いて寝ていたのだ。そしてその部屋は常にホコリがまい、肺の弱めな私はいつも咳をしていた。リビングにある窓ガラスは一枚割れており、ダンボールとガムテープで修復されている。そのためにすきま風が入り込んでくる。風呂場の前の床は腐食して穴が空いており、それを無理やりダンボールを敷いて誤魔化している。また風呂場の窓と天井と壁にはカビが生えている。壁は一面中うっすらとカビが生えて、少しばかり緑色になっていた。そしてその風呂場に装着してあった端末は熱と湿気で故障しており、その給湯器はたんなるお湯温め装置以外の何物でもない。また洗面台の横の洗濯機は一部が割れており、それを買い換える暇も金も無いために、ガムテープによって補修されている。
さて、私は私の行動指針を決めた。それは「やらかしを恐れない」ということだ。もはややらかさないようにしても私はやらかすのだから、やらかさないようにする、というのは結局何もしない、何もするな、ということに等しい。私は何もせずに座して死を待つよりかは、何かをした上で討死した方がマシだと考えている。無論それは「やらかしを反省しない」ということでは無い。私はやらかしを恐れないで行動し、やらかしたとしたらそれを反省し、次の行動に向けた改善策とする、ということだ。やらかすから何もしない、というのは何も反省していないことだ、と思う。
本当にそれがいいよ。自分のはメンタル死んでる人間の戯言なので本当に気にしない方がいい
気持ちはすごく分かりますよ、これはお世辞とかじゃなくて本心です塩ミルク.icon
頭痛がする。いつもの慣れ親しんだ頭痛だ。この頭痛の主要因は確実に画面の見すぎ、なのだろうが、決まっていつも「人間と関わった時」に起きる。スマホの中で、見ず知らずの多数と関わると、必ず頭痛が起きる。何かを考えながら文章を書くと頭痛が起きる。何かに集中した後、頭痛が起きる。単なる眼精疲労かもしれない。
死が全てを無化する、という訳では無いように思われる。無論個々人の生なんてものは長い長い人類史の中の∞のさらに∞分の内のそれでしかない。もう少し厳密に考えてみれば、人の一生とこれまでの人類史を比べてみると、500万分の80、つまり、6万2500分の1、0.0016%にすぎない。しかしながら私は死が全てを無化するのか、と言えばそうは思わない。人が死ぬと確かに私の意識や感情などというものは消え失せるのだろう。少なくとも死者となった私が生者である他人に自分から関わることはない。けれどもこの世には「名」が残る、「形見」が残る、そして「証」が残る。むしろ我々は死によって全てを無化するのではなくて、死によって全てをこの世に残していくのだ。財産も、名誉も、汚辱も、負債も、名前も、全てを残して死ぬのだ。それを「無化」ということは出来るかもしれないが、私は私が生きたということを無化されたくはないし、とにかく断片だけでもいいから私が生きたということを爪痕にしたい。我々は裸で生まれ、そして全てを残して裸で死ぬ。友人も家族も恋人も何もかもを置き去りにして死んでいくのだ。そこで何を残せるのか、というのが私の人生の課題だ。